僕と彼女のはなし 「伝える」

 これまで色々話を聞いてきたけど、ウンウンそうだそうだと頷いていたら、どんどん話が酷くなっていって(ちゃんと聞いているんだよ)、さすがに心配になってきたので、この手紙を書いてます。気に食わないところがあったら、僕の心配しすぎだと思ってどうか許してください。

 結論から言うと、君はもっと周りに甘えるべきだと思う。周りっていうのは、すぐ身近な人たちではなくて、いつもは離れて暮らす家族、友人、他人… 別に男を作って甘えさせてもらうでもいいと思うよ。ちょっと歳の離れた若い男なんか、君から声をかけられたらすごく喜ぶんじゃないかな。

 話は少し逸れてしまうけど、子供への虐待のニュースが報道されるたびに、「相談してくれたら良かったのに…」という周囲のコメントが報道されるけど、僕は腹が立って仕方がない。孤立や孤独は、その人の、そのとき持っているスキルやキャパシティの限界を超えてしまって人に「伝える」ことができないから起こるのに、孤立していた事実や孤独になっていった状況を伝えたところでいったい何になるのだろう。
 そもそも、人は孤独や孤立を深めてしまうとき、たいていは何かしらの理由で心や身体が弱っていて、既に何かしらの手助けが必要な状態だったり、下手したら何もかもがどうでも良くなっちゃっていることが多いと思うんだ。そういう人が誰かに何かをまともに伝えられるとも思えないし、たったそれだけのことで、人の生命や心の安定が奪われてしまうから、恐ろしいというのに、周囲は暢気に「相談してくれたら良かったのに」などとそれでもまだ頑張ることを求めたりする。あー嫌だ嫌だ。僕はそういうのが嫌でたまらないんだ。

 世の中は、本当は僕らが思っているよりももっと自由で広いんだろうけど、そもそも僕らはそのすべてを使う能力など、当然持ち合わせてないから、自分とは別の人格を持つ相手が、自分と同じように嬉しいと思ってくれるかという一抹の不安を抱きながらも、「人にしてもらって嬉しかったことや助かったことを、他の誰かにする」というサイクルをつなげることで、自分の思いを伝えていこうとしている。それに色んな人たちの助けを受けながら、出っ込み引っ込みのある日々を「まぁ、幸せだな」と思えるように折り合いを付けていくのが人生の前提になっている。決して悪いことじゃない。ただ、こう考えてみたって、「伝える」ということは、すごく難しくて、ハードルの高いことだと思う。だから、時に失敗したって当たり前だと思うし、失敗が続くときだってあると思うんだけど、世の中が頑張ることを求めるせいか、追い込まれて爆発しちゃうまで頑張っちゃったりする。

 「人に言うようなことじゃない。」
 「このくらい自分でやらなきゃ、自分でやって当たり前。」
 「これはこうあるべきだ。」

 これって「人にしてもらって嬉しかったことや助かったことを、他の誰かにする」というサイクルをつなげることで自分の思いを伝えていくはずが、自分の行動や気持ちをこのサイクルを回すことに縛りつけてしまっているんじゃないかと。
 「それがいちばんいいって、誰が決めたんだい?」と、つい、君に言ってしまうときって、こういうことが言いたかった。

 311の震災は、僕たちの心に大きな不安を落としていった。僕は1人でいるのが好きだし、君はするもんじゃないというけれど、あまりの揺れに、さすがに一度くらい結婚でもしておけばよかったと思ったくらいだ。
 みんな、同じように311で不安や悲しみを感じたはずだけど、自分だけで感情を出すという雰囲気でもなかったから、みんな押し殺そうとしたよね。というか世の中がそれを求めていた気もする。ただ、それがふとした瞬間に溢れて、身近な人に向かってしまったり、その身近な人の持っていた不安や影と共鳴したりすることもあったと思う。だからこそ、無意識にぶつかり合ってしまった身近な人たちとは距離を多少とっても、他人に甘えてみるのもいいと思うんだ。

 だから、君も僕に話すだけじゃなくて、もう少し僕を頼ってみたらどうだろう。
 若い男よりは気が利くと思うし、いくらでも甘やかしてあげるんだけどな。