出身地をください。

 「ふるさと」のことは先年『幼少時代』の中に委しく述べたつもりだけれども、それらの土地が現在はどういう形になって残っているか、自身で行って見たことはなかった。たまに生まれた土地のあたりを通り過ぎることはあっても、自動車で素通りするばかりで、降りて見たことは一遍もなかった。偕楽園のあった昔の亀島町あたりは、一番後まで知っていたけれども、それももう十五、六年以前になる。自分の生れた蠣殻町や生い育った南茅場町には多分三十年以上も行ったことがないだろう。今度この雑誌のこの企画のために、図らずも七十三歳の老後に及んで六十年の昔に返り、故郷の土を踏むことになった。
        (谷崎潤一郎谷崎潤一郎随筆集」(岩波文庫)「ふるさと」より)

 

谷崎潤一郎随筆集 (岩波文庫 緑 55-7)

谷崎潤一郎随筆集 (岩波文庫 緑 55-7)

 

 

 こんにちは。上の随筆を引用しながら「蠣殻町」から「蛎殻町」になったところで、ワープロやPCのない時代に「東京都中央区日本橋蛎殻町」に住んでいた方々は、年賀状のシーズンなどはさぞや大変だったろうと余計な心配をしていたところです。そのせいか、うっかり、傷みかけ?傷んだ?牛乳を飲んでしまいました。気持ち悪いです。

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 「うわっ、なんだ。人が多い…。あぁ、twitterfacebookでこの街に来ているっていう人多かったな…。しかもこの天気じゃ…。」

 週末にかけて巡ろうと思ったある街が予想以上に混んでいて、宿の確保も当日ではままならない状況に私は困惑していた。仕事を終えて時間があれば見て回ろうという軽い気持ちでいたから、宿泊先を押さえていなかったのだ。もともと人が多いところに人がいないのは淋しいが、人がいないほうがいいに決まっている場所に人が沢山いると、すうっと冷めていく自分がいた。

 (大人しくこのまま東京に戻るか…。)

 ふと、そのとき、最近は滅多に連絡を取らないが私にとってはとても大事な、かけがえのない知人のことを思い出した。連絡をすると珍しくすぐ返信がきた。今日の夜は空いていると言う。

 「分かった。これから向かうわ。飯でも食おう。」

 私は、知人の住む街、小学3年生から中学2年生まで過ごした街に向かった。

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 電車で移動しながら「もし、私が 野球部のマネージャー 力士だったら、一体どこの都道府県の出身の力士として紹介されるのだろう。」という、本当にどうでもいいことが頭に浮かんだ。

 転勤族の家庭に生まれ育った私は、故郷や出身などを訊ねられると返答に窮する。結果的に東京に住む期間がどの街に住んでいた期間よりも長くなってしまったのだが、長年住んでいるからといってその街が故郷や出身になるわけではない。このままだと両親の故郷であり、現在も本籍地であり、祖父母をはじめとする親族がほとんど住んでいて、私が実際生まれた病院のある鹿児島が出身地になってしまいそうだが、中学生の頃まで毎年の夏休みのほとんどを鹿児島に滞在していたものの私自身は鹿児島に住んだことはなく、住んだことのない街が出身地になってしまうことに何とも言えない気持ち悪さを感じていた。
 試しに「血は鹿児島です。」と答えたこともある。すると「生々しい…というかそれは『ルーツ』というのでは?いずれにせよ出身とは違うのでは?」と指摘された。確かに「ルーツ」とは祖先がどういうことをしていて…という私が生まれる前からの「線」で表現されるだろうし、「出身」とは、私がどこからきたのか…という私から始まる「線」の起点だ。「3代住んだら江戸っ子」とはよく言ったもので、3代に渡って住み続けるくらいでないとルーツと出身は一致しない。

 向かっているこの街も、私の出身ではない。中学校の卒業クラスがあるわけではないから中学校の同窓会があっても参加しようがないし、当時の友人たちもこのエリアには住んでいないので、この街を訪ねることはあっても今後、住んでいたエリアに用事ができるとはちょっと想像しづらい。
 そんなわけで、私にとってこの手の質問は非常に答えづらい。転勤族の家庭に育った人たちはきっと同じ思いだろう。別にどこかに所属したいわけでもないし、どこが出身なのかはっきりとしなくても何の不自由もない。むしろ私を知ろうとしてくれるから訊ねてくれるのだろうし、とてもありがたいことだ。もしこの手の話がしたくないのであれば、さっさと他の話題を提供できるくらいのエンターテイナーになればいい。それだけのことだ。

*** 

 翌日、「谷崎潤一郎ごっこ」を決行した。

 私が住んでいたあたりは、街の中心部から20〜30分ほど電車で行ったところにあった。当時は自転車だったが今回は電車の一日乗車券を買い、私の行動範囲だった5駅ほどの範囲にある自分がいた場所を片っ端から訪ねて回った。一駅、電車に乗っては降り、街を歩いて、また電車に乗って一駅進んでを繰り返す。

 CDショップ、塾、図書館、本屋、ゲームセンター。

 この20年で大きく変わった街並み。

***

 一番行きたかったのは、本屋だった。本屋は当時の家の最寄り駅から3駅離れたところにあり、どうやって見つけたのか全く憶えていない。少ないお小遣いで本を買うため、好きになったばかりのミュージシャンたちの情報を手に入れるため、本屋さんや古本屋さんを見つけては覗いて回っていた頃に古本屋だと思って入ったその本屋は、昔の音楽雑誌が床から天井まで並べてあった。他にも、鉄道、宝塚、ミリタリーといったジャンルの本やビデオが溢れんばかり置いてあった。
 インターネットがないということは、Wikipediaはないということ。biographyもdiscographyも分からないということ。好きになったミュージシャンや音楽の情報を手に入れる、その方法から自分で得るしかなかった。TVやラジオはリリース時は流れるけれど、私のように初期に好きになったミュージシャンたちがうっかり10年以上活動しているとなると、過去の活動を知る方法から手に入れなければなかった。古本屋さんはどうしても雑誌の品揃えは薄い。…と、困っていたらあったのだ。本屋が。しかも古本ではなく、何年も前のバックナンバーから取り扱ってくれている本屋が。

 宝の山だ!!!!!!! 

 私は、暇があればこの店に通った。もう片方の、いわゆる「普通の本屋」の方にも必ず立ち寄った。取り扱う本の種類が本当に多種多様で、しかもすべての取り扱いが等しかった。私の飽くなき探究心と広くて浅い好奇心は、みるみる満たされていった。先日この本屋で買った雑誌たちを自炊してスキャンしたのだが、当時、財布を握りしめては立ち読みさせてもらって、内容を読み比べて、1冊買って帰るを繰り返して集めた大事な大事な雑誌たちだった。私が日本のミュージックシーンの知識が年齢の割には古いことを知っていて、年齢をごまかしていないかとよく突っ込まれたり、様々な分野やジャンルに興味を持つようになったのはこの本屋のおかげなのだ。

 本屋に入ると、お世話になっていたおじさんが、おじいさんになって店に立っていた。ただ、音楽雑誌のバックナンバーはなかった。

「ごめんねぇ。そう、お店が2店舗あったでしょ。もう片方の方は閉じちゃったんだ。今は鉄道とミリタリー、宝塚とゲームはこっちの店に持ってきたんだ。」

 おじいさんは言った。

 

ドラマ別冊 エンタテイメントの書き方 Vol.3 2012年 03月号 [雑誌]

ドラマ別冊 エンタテイメントの書き方 Vol.3 2012年 03月号 [雑誌]

 

 

まっピンクの「台所」も売っていた。

(こんな傷んだ本棚だけどれっきとした本屋です。本当に今回も素晴らしい品揃えだった。) 

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***

 好きな街かと問われても、正直なところよく分からない。自分の意思で住み始めた街でも離れた街でもないし、年齢的にもその行動範囲はかなり限られたもので何も知らないに等しい(厨二とはよく言ったものだ本当に)。この街にいて何か楽しいことがあったわけじゃない。日々の生活に鬱々とした普通の中学生だった。この街だったからなのか、転勤先が他の街でも同じことが起こっていたのか、なんとなくぼんやりとしてしまい、必然性とまでは結びついてくれない。
 ただ、この街から引っ越して新しく通った東京の中学校は、ひどく荒れていた。先生が頭からシチューをかけられていた。私自身も引っ越して数ヶ月はトイレに入ってたら上から牛乳が降ってきたような学校生活だったので、この街での生活に多少なりのアイデンティティを感じて生きていないとやってられない時期もあった。5年半という期間だけで考えれば人生の中で占める割合はどんどん下がっていく一方だが、小学3年から中学2年までの5年半という人間が作り上がっていく時期だけをこの街で過ごし、かけがえのない大事な知人と出会ったことは私のその後の人生に大きな影響を与えた。

 それは名物料理を食べたり、中継を見て思い出されるものではなく、清水義範の本を読んでは「大阪には負けてないと思ってるけど、東京はちょっと遠くて届かない(でもまぁそんなもの)」という妙な感覚が自分に芽生えてしまっていることに動揺したり、大学時代にしていた塾講師アルバイトでは「先生が怒るとあの街の方言が出るから気をつけろ」と生徒の中では怒りバロメーターとして作用したりという、ちょっとしたことで自分に組み込まれていることに気付かされてバツが悪いような、そのときの自分が生きていたことを実感するような気分になる。
 今、この街に自分自身も存在しなければ、自分が見ていた世界もない。当時のことも断片的にしか思い出せないし、思い出したとしても、今、私の目の前にあったものとは全く違うものだ。それでも、かき消せない何かとして、私の中に組み込まれている。それが悔しかったり、嬉しかったりするのだけど。

***

 谷崎潤一郎が、ただ、淡々と日本橋界隈を歩いたように、私も真似をして淡々と歩くという「谷崎潤一郎ごっこ」を終え、本屋の近くにあるミスタードーナツに入り、持っていた深代惇郎のエッセイ集をパラパラと読んだ。「倫敦暮色」という深代惇郎がイギリスに駐在していた1972年頃に書いたエッセイが載っており、当時のイギリスやECができた頃のヨーロッパの雰囲気を伝えてくれる。なんでこんなときにこんな本を持ってきてしまったのだろうと思いながら、ドーナツをカフェラテで流し込んだ。

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