僕と彼女のはなし 「チケットの神様」

 なんせ僕は運がない。運がないというか、ツキがない。幸せじゃないかと言えばそんなこともないし、忙しいながらも平和な毎日を送っているけれど、彼女とのデート中にズボンの薄くなったところが裂けて破れたりする。彼女の言葉を借りるなら「周囲が脱力するようなこと」を起こすらしい。ズボンが裂けて破けたときなんかは「突き抜けてて面白い」と彼女はゲラゲラ笑っていたけれど、たいていの「周囲が脱力するようなこと」に対して、周囲や彼女の目は厳しかったし、彼女の機嫌はいつも悪かった。

 そんな僕は、ファンタジーズというバンドが好きだ。ファンタジーズを知らない日本人はいないと思うけど、4人組のバンドで、ボーカルの井戸田さんが数々の名作を生んでいて、メンバーの演奏だってとても上手い。僕はファンクラブに入っているし、そっちの趣味はないけれど、井戸田さんだったら、一晩くらい共にしたっていい気がする。(こういう話をすると彼女は「そっかそっか」とニヤニヤしている。彼女は、付き合う相手が僕でなくとも面白かったら何でもいいのかもしれない。)しかし、僕はファンタジーズのコンサートを生で観たことがなかった。こんなに好きなのにチケットが取れないのだ。そんな僕に彼女が言った。

 「関東の公演が取れないなら、地方公演を取ればいいじゃん。」

 コンサートやライブのために地方に行く(“遠征”というらしい。)ような人を、僕は君しか知らない。

 「えー。だったら観光もしようよ。観光。コンサートだけで行くのが憚られるなら、プラス1〜2日つけて旅行もしよう。チケットも席さえ選ばなければ何とかなるんじゃないかなぁ。」

 数日経って、彼女は福岡ドーム公演のチケットをどこからか確保してきた。

「席は良くはないけど、取れたよ。九州旅行だ!!」

 席がいいとか悪いとかの問題じゃないよ!ありがとう彼女!行ければ嬉しいよ!井戸田さん!!

***

 彼女は、九州旅行の予定を組み始めた。
 「長崎行きたいなぁ。どう?」とか「ハウステンボスは興味ないけどこの電車には乗りたいなぁ」とか言うので、「好きなように組んでいいよ」と言ったら、また機嫌が悪い。チケット取ってくれた君が行きたいというところならどこでも一緒に行くし、それは楽しいことだと思うのはおかしいのかな。そもそも彼女は、ゴールが見えるまではうだうだしているし、しょっちゅう体調も崩して寝込んでたけれど、これをすると決めたらゴールまで一直線に走っていく力がやたら強い人だったから、こういう段取りなどは彼女がやった方が絶対スムーズに行く。得意な人が得意なことをすればいいと思うしね。

 そんなことを思っていると、彼女は「行く気あるの?こんなことなら福岡のチケット取らなきゃ良かった。」と嘆いている。ちょっと待ってよ。僕だって君ができないことをやっているつもりだ。あー、ほら、僕はバイクに乗れる。色々遊びに行ったけど次はどこへ行こうかな…などと思っていると「あなたはやる気が足りないのよ。」と彼女はまたご機嫌斜め。失礼な。僕にだってやる気はある。男女関係ってなんでこんなに難しいんだろう。

***

 チケットに関して言えば、こんなこともあった。

 ファンタジーズの井戸田さんはファンタジーズのプロデューサーと一緒に、毎年夏に3日間の野外フェスをやっていた。僕は彼女ができたら、この野外フェスに一緒に行くことがちょっとした夢だったので、彼女を誘ってみた。彼女も乗り気だったのだが、フェスの直前に彼女と喧嘩が勃発。彼女は行かないといい、僕だけで行けと言う。ちょっと待ってよ。僕は一緒に行くことを楽しみにしてたのに。1人でライブなんて行っても楽しくないよ!
 コンサートやライブが好きな彼女は、「1人でも観たかったら観に行くし。井戸田さんのことあれだけ大好きだとかいってて、喧嘩したごときで観るのやめるとか、井戸田さんのこと好きじゃないでしょ?私はこの状態で行っても楽しめないし、大人気がなくて申し訳ないんだけど、ちょっと怒りが収まりそうにない。無理。ごめん。」と引きこもってしまった。
 井戸田さんのやっている野外フェスに、男がひとりぼっちで行くなんてそんなバカな!
 自分で「喧嘩ごとき」っていうくらいの喧嘩であんな怒らなくたっていいじゃないか!

 そんな散々なフェスとなってしまったので、翌年は、3日間の開催のうち、なんとか初日と2日目のチケットを手に入れた。3日目は確保できなかったけど、まぁ、仕方ない。彼女も喜んでいる。僕も喧嘩をしないようにして、待ち望んだ。

 しかし、「7月にしては史上最大の台風」が日本を襲ったのだ。土曜日の初日、日曜日の2日目も中止になってしまった。彼女は「まぁ…何かあったら2度と開催できなくなっちゃうからさ…もし開催してもこんな交通機関の状況だと会場に来られない人もいるだろうから」と慰めてくれたが、もうトラウマになりそう。君が去年怒り散らして行かなかったからだよ。彼女から「とりあえず家に向かうよ。」という連絡が来たが、適当に返事をして寝ることにした。

 夕方すぎ、ピンポンピンポーンと音がする。愛してやまない僕の家の番犬たち(犬については長くなるので別の機会に話すことにする)が吠えている。僕の母親の話し声が聞こえる。そういえば彼女来るって言ってたな。

「あれ、ふて寝してるんだ。準備できているのか。野外フェスは準備が大事だぞ!新幹線とかは!?」
「それ、明日のチケットが取れなかった僕に対する嫌味?」

 彼女はやたら誇らしげだ。
 彼女は最終日のチケットを持っていた。オーマイゴッド。何で手に入るんだ。

 「いくらしたの!?」
 「はい?定価だよ。オークションとか高いし使わないし。台風の進度を考えたら最終日はあるかもしれないと思ったから、探してた。水曜日に手に入った。ぐへへ。明日はあるんじゃないかな!新幹線とろうぜ!!」

 初日であり最終日となった3日目は、台風のせいで、ぬかるみだらけだったけど、初日と2日目に出る予定のアーティストで都合のついた人まで出てきて、とびきり豪華なフェスになった。しかもシークレットゲストで彼女が大好きなアーティストが登場した。彼女もさすがにギャーギャー騒いでいる。彼女が好きなアーティストのファン層と、このフェスの観客の層は重なっていないのでファンらしき人はほとんど回りにいなかったし、彼女が大好きなアーティストがフェスに出るなんて聞いたことがない(彼女も昔だけだと言っていた。)しかし、彼女は、ちゃっかりツアータオルと持って来てブンブン振り回している。

「2ちゃんで彼が出るって噂がちょっと流れててね……」と泣いている。

 僕のためじゃなかったのね。

*** 

 僕は、次のファンタジーズのライブこそ自分でチケットを確保しようと心に決めた。

 そして、ファンタジーズの15周年ライブツアーが発表になった!このツアーは、「カーサ」というオリジナルアルバムを引っさげたツアー(アリーナツアーといって屋根がある会場)と15周年を記念したベストアルバム的なツアー(スタジアムツアーといって屋外の会場)だった。

 おめでとうファンタジーズ!僕はずっとついていくよ!

 僕はついにファンクラブ先行予約で申し込んだチケットに当選した。日産スタジアム。彼女にも伝えた。「やっと取れたのね」と喜んでいた。へへん。男は彼女の笑っている顔が好きなのだよ。

 

 しかし。
 僕は、肝心のチケット代金を振り込み損ねた。期限の日まで支払わずにいた僕が悪い。ただ、一言言い訳が許されるなら、例えば15日までと言われたら15日中だと思っていた。彼女曰く、最終日は23時までとかであることが多いらしい。その日は仕事が忙しくて、家の近くに戻ってきたときは23時半を回る頃だった。コンビニで機械を何度も操作してもエラーが出る。支払えない。日付が回ってしまった。

 コンビニから家に帰る途中、彼女に電話した。僕のことを罵ってばかりいる彼女も、さすがに罵ることを忘れてしまったようだった。

 「あのさ…。あ、いや、うん、えーっと。これはあなたより私の方がコンサート行く気があるって言われてもおかしくないよね…。」
 「うん…」
 「いやぁーまぁ泣くなよ。つーか払い終わってると思ってた…。」
 「泣いてないよ…」
 「まぁ、これでちょっとは直るといいな。多分、日頃の喧嘩はこういうところだと思うから。しかし参ったな…とりあえず、一般発売にチャレンジしよう。地方も申し込もう。OK?」

  一瞬、彼女が僕の日々の言動にまで毒を吐いたことに焦りつつも、仙台のチケットを一般発売で押さえた。

 「行けることにはなったけど、Fブロックかぁ…私、見えないなぁ…電車に乗って行くのになぁ…はぁーあ。日産スタジアムのお金を払い込んでいれば…。あとは私に任せてもらっていい?」

 お気に召すまま。交通費は僕が持ちます。

 彼女は、ほどなくして「よし!見える席確保!」と僕に連絡をくれた。
 持っていた仙台のチケットは、当時仙台に住んでいた共通の友人に連絡してちゃっかり譲りつけていた。

***

 僕らは東京駅で待ち合わせた。改札まで歩きながら買っておいた新幹線のチケットを彼女に渡した。ところが、いざ、改札をくぐろうとすると、僕の新幹線のチケットが見当たらない。

「新幹線のチケットちょうだい。」
「え?? 私、自分の分しか持ってないよ?」

 僕の手許には2枚分の購入金額の書かれた領収書しかなかった。雑踏の中で落としたらしい。彼女はカンカンに怒っていた。僕だって泣きたい。1万円がどっかに行ってしまったのだ。「周囲が脱力するようなこと」ってこういうことか。彼女は新幹線の中で、口を利いてくれなかった。彼女はまたどこから見つけてきたのか、前から20列目という素晴らしいチケットをどこからか手に入れていた。彼女が言うには、某SNSのコミュニティで定価で譲ってもらったという。なんかこんな話、前にもどこかでなかったっけ?そもそも、そういうのでチケットって見つかるものなのか?というか、やることが全力すぎる。彼女はため息をついた。

 「なんでこんな頑張ったのに、あなた、なんで、そんななの?」

 僕は何も言い返せなかったけど、僕にも僕なりのペースもあって、なかなか譲らなかったから、ますます喧嘩も増え、このコンサートからほどなくして彼女との恋愛は終わりを告げた。

*** 

 それから半年ぐらいして、僕に海外赴任の辞令が出た。3ヶ月後からヨーロッパだという。とりあえず、別れた彼女に連絡した。彼女は「良かったじゃん!やったねぇ!」と喜んでいる。

 「先輩とかより先に行っていいんだろうか。」
 「話を聞いている限り、予想してたタイミングだったけど。その後のキャリア考えたら、この時期なんじゃない?」
 「一緒に行こうぜ。ヨーロッパ好きじゃん。」
 「バカ言え。ヨーロッパ『が』好きなだけだ。まぁ、楽しんでこいよ。お金があったら遊びに行ってやるからさ。」

 実は、ファンタジーズはこの時期もライブをやっていたが、今回のツアーもチケットが取れずにいた。また次の機会に…と思ってたところに海外赴任が決まってしまった。彼女のせいでライブバカが移ってしまったのかもしれないが、もう観られないかもしれないと思ったらますます行きたくなってしまった。ファンタジーズのCDですら発売日当日に買えなくなるんだよ!こんなにファンタジーズ好きなのに、しかも海外赴任だっていうのに、さいたまスーパーアリーナ横浜アリーナ、武道館…全部落選。なんで取れないのさ。どうして取れないのさ!

 すると武道館公演の8日前に別れた彼女から連絡があった。なんかテンションが高い。

「どうした?」
「武道館のチケットが1枚手に入ったから、行ってこいよ。どうせ取れてないでしょ?しかも喜べ。端の方だけど前から3列目だ。繰り返す。日 本 武 道 館 の ア リ ー ナ の 前 か ら 3 列 目 だ。海外赴任の餞別だ。おごってやろう。偉いなぁ私。別れた彼氏のためにチケット探しちゃうとか。言っておくが、ここまで大変だったのは初めてだ。」

 彼女が言うには、某SNSで譲ってもらう話がいくつも頓挫してさすがに今回は難しいと諦めかけていたところに、彼女が好きなアーティストのファン仲間から2年ぶりにメールがきたそうだ。そのメールには「ファンタジーズの武道館のチケットが1枚あるんだけど行かない?結構前の方だよ。」と書いてあったというのだ。彼女のファン仲間は、彼女がファンタジーズのチケットを探していることを全く知らなかったはずだ。こんな出来すぎた話ってあるものなのか。彼女がオークションは使わない主義(というか使うお金がない)のは知っているから、本当にそういう連絡が来たのだと思うが、なにその、奇跡のような話は。

「右隣の人が、私の知り合いだから、お礼を言っておいてね。」と彼女は言った。

***

 近くで観る井戸田さんは、これまで観ている井戸田さんとは別のものだった。こんな近くで見ると、近いというか、近い。僕のこと見てくれたし。いや、うん。確かに見てくれたよ。僕のためだけに歌ってるわけじゃないけど、ステージをちょっと歩いてきてくれると、井戸田さんしか視界にいなかったりするから、僕のために歌ってくれているような気がしてしまう。彼女は好きなアーティストのツアーがあると「前の方、後ろの方、2階席、両サイド、まぁあとPA卓の前あたりは観たいよね。」などと僕には理解不能なことを言っていて、僕は僕でコンサート会場の中に入れるだけ充分と思ってたけど、それはそれ。これはこれ。こういう席で観てしまうとファンってもうやめられないのかもしれない。

  僕はその後もう一度、ヨーロッパに一緒に行こうよと誘ってみたり、一時帰国したときにも彼女の存在の重要性を説いたけど、彼女は「気持ちはありがたいけど。うーん。そういうのじゃないんだよねぇ。違うんだよねぇ。」と言って首を縦には振ってくれなかったし、引っ越したという新しい家にも招待してくれなかった。彼女はライブばかり行ってて全然お金が貯まらないから、もう僕はヨーロッパに来て数年経つし、彼女も「ヨーロッパ遊びに行くからさ!」なんて言っていたけれど、案の定、彼女はヨーロッパに辿り着いていない。

 そんなこんなのうちに、僕にも新しい素敵な人が見つかった。彼女とはたまに連絡を取ることはあるけれど、彼女はやっぱりライブの話しかしないし(相変わらず素晴らしいチケットに巡り会ったりしているらしい。)、「彼氏はできた?」というと「モテるときもある」などとよく分からないこと言っている。まぁ、あまりそういうことを人にペラペラと話すタイプでもないし、幸せにやっているのだろう。

***


 願い、願い、願い続け、そのために見えないところで努力して、能力を高め、いざというときに爆発的な力を瞬発的に出せるかを試す。

 当時、彼女は僕に「気持ちの問題」としか言わなかったし、僕は僕で「運がない」と思っていたけれど、これって「信念」と言うのかな。ファンタジーズのチケットを取り続けた彼女の姿を見ていると、純粋に、強すぎるほどの信念が「あの人は本気だな」と伝わって、時に大きな力を生み出すのかもしれない。何もコンサートやライブのチケットに限ったことではない。何かをやり遂げる、成し遂げるには、「信念」があるかどうかで決まるのかもしれない。あの時の彼女のように、あそこまで注ぎ込んだらとても身が持たないけれど、仕事もどんどん面白くなっていく年になり、未来のこともあれこれぼんやりと考えていた頃に、ファンタジーズの20周年記念ツアーが発表になって、思い出した昔の話。

 

ヨーロッパ鉄道時刻表2015年冬号

ヨーロッパ鉄道時刻表2015年冬号